朝日新聞2000年(平成12年)6月11日 日曜日

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■■■川崎市広本義孝さん(三九)からのメール
分離信号普及に執念 子を失った重み感じます。

 青い前掛けは八枚目になった。だるまの形をした石の地蔵に帽子と一緒にかけられている。毎年十一月十一日になると取り換えられる。布は新しくなっても、ずっとこう書かれている。「ぼくのわたったしんごうはあおだったよ」

 東京都八王子市の病院で事務職員をしている長谷智喜さん(四七)は、この言葉の意味を考え続けてきた。一九九二年十一月十一日、よく晴れた朝だった。長谷さんの長男で小学校五年生の元喜君(当時一一)は、妹と二人で家を出た。自宅から八百メートルほど先のT字路を青信号で渡り始めた直後、後ろから左折してきたダンプカーに巻き込まれた。即死だった。数日後、元喜君のランドセルから手作りのカード六枚が見つかった。学校の子ども祭りで使うクイズの問題と答え。事故の前の晩、元喜君が一生懸命作ったものだ。「ドラエもんは何せいきからきたのでしょう」「今年はなに年」。そんななかの一枚に長谷さんの目はくぎ付けになった。質問「信号はなぜあるのか」答え「信号がないと交通事こにあうから」

 道路へ飛び出したわけではない。安全を信じて渡った青信号のはずだった。車の運転手は通常、青信号で右左折する時、交差する横断歩道を歩行者が渡っていれば停止して待つ。だが、現実には人身事故が相次いでいる。「見落とし」という不注意があるからだ。「人間の注意力に頼る信号システムに問題がある」そう確信した長谷さんは夜勤明けや休日を利用して、各地の交差点での車両交通量や歩行者の通行量の調査、危険度の研究を重ねた。子どもの事故があれば現場を訪ね、原因を分析した。新聞記事に載っていた事故現場には、必ず花が置かれている。子どもの事故の場合は、家も近く被害者宅はすぐにわかることが多い。遺族からもじっくりと話を聞いた。断られることもある。家の前まで行っても外でそっと手を合わせて戻ることもあった。

 「人と車の流れを完全に分ける信号であれば、悲劇は繰り返されずに済む」。長谷さんの出した結論だった。歩行者が交差点の横断歩道を渡っているときは、車側の信号はすべて赤になる。この仕組みは「分離信号」などと呼ばれている。長谷さんは最初は呼び方も知らなかった。通学路を分離信号に、という要望はささやかなものだと思っていた。元喜君が通った小学校の先生たちや地域の町内会長らも賛同してくれた。最終的に二万人を超える署名が集まり、警察に要望書を提出した。

「分離信号にすると信号の待ち時間が長くなり渋滞する。歩行者も待ちきれずに信号無視が増える恐れがある」というのが警察の回答だった。元喜君の事故現場の信号についても「現状のまま変える必要はない」。

 長谷さんは、ダンプカーの運転手らに加えて信号を管理する東京都を相手取って損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こした。信号の危険性をクローズアップさせたかった。東京高裁まで争ったが、都の管理責任は認められなかった。昨年夏、事故以来の運動の経緯をまとめて「子どもの命を守る分離信号」(生活思想社)を出版。年末にはインターネットのホームページも立ち上げた。

 長谷さんの問題提起は、しだいに広がりをもってきた。三月の岐阜市議会では、長谷さんの著書を手にしながら市議がこう訴えた。「青信号は決して安全なものではない。人と車を同じ平面で交わらないようにしていかなければならない」長谷さんも裁判を傍聴した。人から誘われて全国母親大会に出かけたり、交通安全に取り組む市民に招かれたりして、講演する機会が増えた。母親を中心に、長谷さんと同じ要望が各地で出されるようにもなった。千葉市内のモデル地区では六月末に通学路十カ所を分離式にする準備が進んでいる。

 仲の良い四人家族だった。北海道が好きで、毎年家族で旅行に行った。家には、事故の年の夏に旅行した時の元喜君の写真が飾られている。家族が三人になってからは出かけていない。「元喜を家に置いていけない」という思いからだ。長谷さんの趣味だった風景写真の撮影もやめた。「自然を見ても感動しなくなってしまった」と言う。ささやかに思えた願いで始めた運動に、長谷さん夫婦は仕事以外の生活のほとんどを費やしてきた。子どもを突然失った悲しみは運動に打ち込むことで埋まるわけではない。「強制されていたのなら、とても続かなかったでしょう。亡くなった元喜の意志と思うしかないですね」事故現場の交差点の信号システムは八年前のあの朝と変わっていない。交差点のわきで地蔵になっただるま形の石は、妻のかつえさん(四六)が事故後に近くで見つけたものだ。前掛けの青は、信号の色を示している。

文・蝶名林 薫

写真・大北 寛


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