実母 陳述書  平成8年4月18日

   裁判長殿

平成七年(ワ)二六〇八号 損害賠償請求件

 私たち家族は平成四年十一月十一日の朝、突然の交通事故で長男(元喜、当時一一才小学校五年)を奪われ長女(現在小学校六年)の三人家族になってしまいました。あの日から悲しく寂しい毎日が始まりました。食事時では空っぽの椅子に目をやるたびに胸がはりさけそうでした。又無意識にお皿を四枚用意したり魚等も四匹買ってしまったりと、ハッと気がつくと胸が痛み涙が止まらず気が狂いそうになりました。そして常に胸にこみあげてくるのは加害者への怒り、そして「なぜ青信号の横断歩道で死ななければならないのかという交通事情でした。

一、事故当日の事

 平成四年十一月十一日晴天、兄妹は、いつものように学校へ向かいました。上川橋交差点にさしかたった時、歩行者用信号は赤だったので兄妹は立ち止まって、信号が青になるのを随分待っていたとのことでした。やがて青になり妹はサッサと走って渡ってしまい、その後を兄は歩いて渡り始めたのでした。せっかちな妹に対して思慮深い兄は、おそらく美山方面から来る車の停止を確認してから歩いて渡ったのだと思います。そして横断歩道の中央まで歩いたとき、前方不注意の左折ダンプが兄を発見する事なくダンプの右バンパーで押し倒し後輪で蹂躙しました。尚加害者は、気づかず後続車や回りの車の警笛によって止まった状態です。

 交通ルールを守って命の安全を計ろうとした歩行者が鉄の塊を走らせている者に命を委ねてその前を通過しなければならない現在の交通事情。横断歩道を歩行者が渡り始めてから来る左折車や右折車に対して、前方不注意の運転手にめぐりあってしまったら「歩行者は運が悪かった」ですまされてしまうのでしょうか。たった一つしかない命を「運が悪かった」でこの世から消されても仕方がないものなのでしょうか。この事故がもし、歩行者専用の押しボタンの信号だったりスクランブルのような信号機だったなら長男(元喜)は命を亡くすことはなかったはずです。本当に悔やまれてなりません。

 今回のこの事故を目撃した後続の運転手Kさんが「あのダンプカーはウインカーも出さず曲がり始めた。左折を知らせる合図の音もまったくなかった」と話してくれました。不思議な事にこの目撃者の証言は事故調書に記載されていないのです。

二、私たち夫婦の子供感

 私たち夫婦は二十一歳で結婚しました。子供は当然ほしいと思いました。でも経済的に基盤のないこの時期に子供が産まれても決して良い環境ではないだろうと二人で考え、二十八歳までは子供を作らないよう計画いたしました。

 それから二人で一生懸命働きました。夫は大学の夜学部を受験し教育学を専攻するなどして勉学に励みました。私は保母として幼児の養育や保育にたずさわり二人で教育について、又子供という存在について真剣に話し合ったりもしました。結婚してから七年目、二十八歳の時計画出産で長男(被害者となってしまった元喜)を出産しました。待ち望んで生まれた子供です。元気ですくすくと育ってほしい。たったそれだけに願いをこめて元喜と命名しました。「喜」という字は父親の一文字を与えました。そして二年後、二人目が生まれました。長女(友姫)です。二人目は「勇気のある心の強い子」という気持ちで最初から兄妹で「対」になるよう考えていたのです。

 我が家の「げんき」と「ゆうき」は二人で良く遊び保育園時代をすごし、やがて小学校も二人で仲良く並んで通学をしていました。当時長男は五年生でした。後一年で小学校を卒業する事ができたはずなのに、この事故はあまりにも惨い仕打ちです。親にとっては、子供というものは生きる支えです。その支えを加害者はいとも簡単に「前方不注意」という方法で一瞬のうちに奪ってしまったのです。

 長男の位牌の前で「加害者を殺して私もあなたのところに行くからね」となんど手を合わせたか知れません。死ぬのも地獄ならこのまま生き続けるのも地獄なのです。ましてや子供に先立たれた親は一生この生き地獄から抜け出す事はできません。

三、長男の夢

 長男(被害者元喜)はとても真面目な性格で宿題は忘れたことがありません。又、同級生の男の子が自転車で車道を通っていても本人は親との約束を守って歩道を乗っているような子供でした。長男は学校での出来事なども話してくれて、親子の信頼関係も十分ありました。家族としても一番充実していた時期でもありました。

 長男は、五年生になるとカメラに興味を持ち始め、父親のカメラを時折、借りては、自分で組み立てたプラモデルのジオラマを写真に撮っていました。将来は「つぶら谷プロに入って特撮プロジェクトの仕事がしたい」という夢を持っていました。親も夢を具体化させて行こうとする長男をほほ笑ましく、目を細めて見つめていました。しかしあの日の事故で長男の夢は永久にかなわぬものにされてしまいました。

四、遺された長女のために

 「おかさん おとうさん なかないでね。くるしいことはいっぱいあるよ だからなかないでね。」

 これは長女が書いたものです。親が毎日泣き暮らす姿を長女は(当時九才)はどんな思いで見つめていたのでしょうか。自分の目の前で起きた事故のショックよりも泣き暮らす親を心使っていたのです。九才の長女は私たち親の前では泣きませんでした。いえきっと泣けなかったのでしょう。号泣している親の姿を目のあたりにして、兄がこの世の人ではなくなった実感よりも親がなりふりかまわず泣いているさまに、長女はなんとかしようと必死で明るくふるまってくれました。それがかえって親や親戚の者には痛々しく、やりきれない気持ちでした。しかし長女も日がたつにつれて、やはり寂しさをおさえきれなくなってきました。同級生には「家に帰っても寂しいの」という事を話していたようでした。友だちに書いた手紙には「家に帰ってから寂しい、お母さんが帰ってくるまで一人でいるのは寂しい。ファミコンをしていてもいっしょに見て喜んでくれる人がいない。」と書いたようでした。

 又、学校の作文にも「兄妹」という題で、兄がいて楽しかったころのことを印象深く書いていました。本来兄妹はけんかをしたり言いあらそいをしながらも助けあったり支えあったりして自己を養っていくものであると思います。その大切な環境を突然奪われてしまいました。「ゆうれいでもいいからお兄ちゃんにあいたい、ひとりはさみしい。」という作文を見せられた時、正社員からパートに切り替える決心をしました。長女が家に帰宅した時に誰かが家にいてあげなければこの長女までも精神不安定になってしまうと考えたからです。

五、長女が受けた心の傷

 あの日の事故から今もなお長女は放映されるドラマやニュース等で「血」の場面を見るたび異常なほど顔をかくして見ないようになりました。九才の時に現実に起きた兄の死の現状を見てしまったのであろうことは、このような長女の仕草からも伺う事ができます。いつあの日の事がフラッシュバック状態で長女をおそうかわかりません。今でも悪夢としか思えません。又、親としては、長女を遠方へ出かけさせるのも不安です。そのため行動半径をせばめてしまいがちです。一人ででかけてはいけないとか、遅くなってはいけないなどつい口うるさくなってしまいます。学校行事で遅くなった時などでも学校に電話をかけて所在を確かめてしまいます。必要以上に子供の安否を気づかうようになってしまったのも長男を加害者にうばわれてしまったからにほかなりません。

 以上のように私たちは加害者によって平和な家庭を破壊され癒える事のない精神的苦痛を与えられ算定できないほどの損害を受けました。一方的に子供を奪われた被害者として、よろしく御審議下さいますようお願い致します。

平成八年四月十八日

                               東京都八王子市

                                 長谷かつえ


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